私が極度の緊張症&社会不安障害の時、どんな心理状態と思考をしていたか2
目が覚めているときはいつも、「あがり症」「会議」「プレゼンテーション」「「スピーチ」のことばかり頭に浮かんでしまって、くよくよ考えてしまう自分に嫌悪感を持った。そのくせ、私はプライドをもっており、プライドの高さと私の情けない弱点であるあがり症との絶望的乖離にも苦しめられた。
プライドの高さは厄介だった。それは時には頑張れる原動力にもなるが、私にプライドがなければ、あがり症になっていなかったかも知れない。「人によく見られてよう、すごいと思われたい、失敗だけはしたくない」こんな考えは絶対に自力で消すことができなかった。
俺は俺だ、誰になんと思われても関係ないなんていう覚悟ができている御仁がいるが、ものすごくうらやましく思った。俺にはできない。私はみなから一目置かれたいと思っているくせに、目立ちたくない心もあった。自分でも生きにくい性格だと常々思ってきた。
ただ努力というか潔癖なのか、完全主義者なのかわからないが、けっこう極端な性格だったと思う。だらけている奴や、頑張れない奴が大嫌いだった。だからずっとよく思われよう、自分で納得した道を歩もうと決意し、その部分では頑張れる人間だった。
そこに全精力を注入できたのに、あがり症がばれそうになる予感にさいなまれてしまったら、そればかりに全神経をつぎ込んでしまう。損な性格をしているとつくづく思ったが、でもプライドの高さからか、そういう性格じゃないと社会でやっていけないという誇りもあった(だからふやけた奴に嫌悪感をますます持ってしまう)。
会社でもいい環境と人間関係に恵まれて、かなりの上の方まで進むことができた。あがり症だとわからせないで、よくここまでできたものだとプライドが満足した。
それで私の下につく奴に対して、少しでも自分の理想にそぐわないと(つまり頑張る能力が少ないと)、見下す癖があった。なんでここまで自分の中で傲慢になれるのだろう? と自問自答したが、良くなった『あがり症・話し方弱点克服プログラム』をやっていくうちに、自分のあがり症という弱点があるから、人への攻撃性が出てしまうことに気がついた。
そうやって相手を見下すことで、プライドを肥大化させて(それはガンにしかならないのだ)、弱点から目を背け、自分を守ろうとしていたことに気がついた。ちょうどあるホームページでも、自分を分析している同タイプの人がいたが、「なるほど!」と思うくらい、私に似ていた。あがり症という弱点を抱える自分に満足できないから、プライドだけを上げて、私自身の自己崩壊を防ごうとしていたのだった。
それは癌にしかならない。プライドの高さは、その人の内面の自信と実績と比例していなければいけない。しかし、外面ばかりよくしようと学歴や社会的地位は手に入れることができたが、内面の自信はこれっぽっちもなかった。
しかも、あがり症がいつかばれてしまうだろうという恐怖感と不安の中、社会的地位と会社の中での立場さえ崩れ去る予感があった。内面と外面の両方とも失ったら、私はもう生きていけないと感じた。怖くて怖くてたまらなかった。
(続く)
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